今月の一日坐禅会は15(水)です。11時から1時間ほど正法眼蔵随聞記の勉強会になります。
田んぼの荒起こしと畔塗がおわったところで、非常に良いタイミングで恵みの雨となりました。去年からまとまった雨がなく、平勝寺裏山の池は水量が半分です。今年も降水量が回復しなければ、農作は厄介なことになりそうです。
公案を紹介します。
大雨の日、師が弟子に尋ねた。「外の音をどう聞くかね?」
弟子は答えた。「雨音です。(雨滴声)」
師は言った。「外の対象を追いかけて自己を見失っておるわ。」
弟子 「では、師はどのように聞きますか?」
師 「自己を見失わないことだ。」
弟子 「自己を見失わないとは、どういう意味でしょうか?」
師 「実に簡単なことだ。しかし言葉で言うことは難しい。」
(碧巌録46則 鏡清雨滴声)
師の問いを言い換えれば、こうです。
「外の音を聞いている自己とは何か?」
弟子は「雨の音です。」と答えることで、雨音を知覚する自分と対象である雨音に分かれてしまいました。
弟子はどのように雨音を聞けばよかったのでしょうか?
大雨の日の坐禅会で、ある参禅者が自分の体験を報告してくれました。
「坐禅中、雨が体の中に降っていました。」
堂内で坐禅をしていても、外では雨が降り、鳥が鳴き、森が風でざわめいたりしています。
それらは坐禅と別のものではありません。雨や鳥、ざわめく森、それらも含めて坐禅なのです。
坐禅には境界がありません。
この公案で師は言葉で言うことは難しい、と言いましたが、そうとも限りません。公案を少しいじってみましょう。
弟子 「自己を見失わないとは、どういう意味でしょうか?」
師 「雨音だ。(雨滴声)」
「雨滴音」

