由来
保元(1156~59)の乱以前、平勝寺は檀独山 大悲密院といい天台宗の密教寺院でした。当時は規模も大きく七堂伽藍を備えていたと伝えられています。今では“大門” などの地名にのみ、その名残がうかがえます。戦火で寺は本尊を除いてすべて焼失してしまいました。平治元年(1159)藤原、若尾の豪族らが寺を再建し、武運長久の祈願所としました。
その後、元弘元年(1331)後醍醐天皇が笠置山(現京都府)での幕府との戦いに敗れて隠岐島に配流になった際、天皇の第三皇子平勝親王は関白二条良基を共にして足助郷に逃げ延びてこられました。親王は中之御所におられ、天皇の都への帰還を願っておられましたところ、ある夜の夢の中に一羽の鳳凰が飛んできて「親王さま、天皇が京都へお帰りになることを願うのならば、巽の方角に聖観世音菩薩をお祀りする霊場があるから、そこでお祈りしなさい。そうすれば天皇は都に帰還されることになるでしょう」と告げました。
親王は良基を伴にして巽の方角の山に分け入られたところ、夢のお告げ通り、聖観世音菩薩をお祀りする霊場(現平勝寺)がありました。そこで親王は七日間、天皇の都への帰還を祈願されました。七日目に鳳凰が空に現れるのを見て、祈願が成就されたとたいへんお喜びになりました。その後数日もたたないうちに、天皇が京都へお帰りになったとの報せが届き、親王も京都へお帰りになりました。
この事を聞いた後醍醐天皇はお使いとして散位従四位藤原湖行を遣わされて、勅額一面、太刀一振を御奉納になりました。これ以後、寺名を鳳凰山 平勝寺と改め、菊桐の御紋も賜り、今に至るまで大切に守っています。
文化財
綾渡の夜念仏
国指定重要無形文化財
ユネスコ無形文化遺産
夜念仏は新仏(その年に亡くなった人)の家を回り、霊を慰めるために念仏と回向を手向け、盆踊りを踊るお盆の行事です。念仏に続いて行われる盆踊りは楽器や音楽を一切使用しない素朴で静かなものです。かつては三河山間部から岐阜県の恵那市にかけて広く行われていましたが、今も伝わるのは綾渡だけです。昭和35年に保存会が結成され、綾渡に住む人々を中心に伝承されています。
8月10・15日の夜に平勝寺境内で行われます。