参禅者の皆さんから一番よく訊かれる質問は「坐禅と瞑想はどう違うのか?」ということです。このコラムでは、坐禅と瞑想の違いや共通点について実践に即して説明します。
- あなたは開目派、それとも閉目派?
- 一点集中型の瞑想と坐禅
- 「何もしない」ことに全力をあげる
- ヴィパッサナー瞑想、マインドフルネスと坐禅の共通点

あなたは開目派、それとも閉目派?
「坐禅と瞑想は違う」ということは日本の坐禅の指導者からよく聞かれます。私も専門僧堂で修行していた頃、先輩から「坐禅は瞑想ではない!」と厳しく言われたことがあります。どういうことかと思ったら、眼を開いて坐れよ、ということでした。
このように一昔前の日本の坐禅の指導者が「坐禅と瞑想は違う」と言う場合、その理由の一つは、瞑想は眼を閉じて行うが、坐禅は眼を半眼に開いて(臨済宗の場合は眼を文字通り見開いて)行うのだというものでした。これには瞑想は眼を閉じてリラックス効果を狙うが坐禅はそうではないという、瞑想に対する偏見も幾分か含まれています。中国の宋代に著された坐禅の指南書には「これに深旨あり」(これには深い意味がある)としながら、何も説明されていません。敢えて説明すれば、次のようなことだろうと思います。
眼を閉じて坐禅するデメリット
- 連想・妄想に巻き込まれやすい。
- 昏睡状態に陥りやすい。
- 姿勢が崩れる。
三番目の姿勢が崩れるというのは、眼球の周囲にある視線を調整する筋肉は体幹の筋肉とつながっていて人間の姿勢を調整する役目を担っているため、眼を閉じて坐っていると、自分では真っすぐなつもりでも、だんだんと傾いたりゆがんだりしてきます。
一方、敢えて眼を閉じて坐禅するメリットもないわけではありません。それは身体の感覚が取りやすいということです。後述しますが坐禅の実践において身体感覚というものが非常に重要です。
曹洞宗の開祖である道元禅師が師の如浄禅師に坐禅中は眼を開くべきかどうか尋ねたところ、集中力が安定してきて眼を閉じても散乱や昏睡状態に陥らないようならば、眼を閉じても構わないと答えたとされています。ですから、眼を開くかどうかはさほど本質的な問題ではないことが伺えます。
一点集中型の瞑想と坐禅

一方、海外の坐禅や瞑想の指導者からは、「坐禅と瞑想との違い」このようなことが問題になることはほとんどありません。実際、坐禅もZen meditationとして普通に紹介されています。「坐禅と瞑想は違う」、それは瞑想をどう定義するかによるのです。
日本の坐禅指導者が「坐禅と瞑想は違う」という場合、彼らの念頭にある瞑想はどのようなものなのでしょうか?多くの場合、ある概念やイメージを心に作って、それに集中をかける一点集中型の瞑想のことです。世の中で実践されている瞑想のほとんどが、この一点集中型の瞑想に分類されます。(註1) 例を挙げれば、パタンジャリのヨーガスートラの瞑想法はこの代表例です。このカテゴリーから見れば、キリスト教の修道院で行われている祈りも、このタイプの瞑想の一例といっていいかもしれません。
この一点集中型の瞑想の目的は、禅定と呼ばれる特別な集中力の確立です。仏教では9段階に分かれており、マスターするのは至難のワザです。お釈迦様はじめ、原始仏教の比丘たちはこのタイプの瞑想の達人ぞろいでした。
しかしながら、お釈迦様が気づかれたことは「禅定の確立だけでは苦しみからの解放を実現することはできない」というものでした。この深遠な気づきは坐禅にまでつながっています。「坐禅と瞑想は違う」という場合、正確には「坐禅は一点集中型の瞑想とは違う」ということです。
坐禅は集中力の育成にそれほど重点を置いてはいません。それでは坐禅の目的とは何でしょうか?
「何もしない」ことに全力をあげる
古代の禅テキストにのっている有名なエピソードがあります。(註2)
ある弟子が坐禅をしていると、師が来て尋ねます。
師 「なにをしているのかね?」
弟子「何もしておりません。」
師 「それならぼんやりして坐っているだけだね。」
弟子「もしそうなら、『ぼんやりして坐っている』をしているのです。私は何もしておりません。」
師「一体『何も』とはなんだい?」
弟子「悟った人が千人いたって誰も知らないでしょう。」
師は弟子の答えを賞賛した。
何もしていないとき、明らかにわかる事は、眼には物のイメージ、陰影が映り、耳には音が聞こえ、体内の温感、思考が浮かんでは消えていき・・・というように眼耳鼻舌身意の六感に情報が出入りしているということです。この弟子がいう「何もしない」ことというのは眼耳鼻舌身意の六感に出入する情報に手を出さず、出入するそのままに気づくということです。
このように眼耳鼻舌身意の六感に平等に気づくとき、見る、聞く、思考という過程だけがあり、見る人、聞く人、思考する人はいません。それが「悟った人が千人いたって誰も知らない」ということの意味です。「何もしない」ことに徹するとき、目的を達成しようと苦闘する自我意識=主体/客体という認識の構造はどこまでも解体されていくのです。
ヴィパッサナー瞑想、マインドフルネスと坐禅の共通点
瞑想の定義の範囲を広げてヴィパッサナーやマインドフルネスも瞑想に含めると、坐禅と瞑想の違いは判然としなくなっていきます。多くの共通点があり、このコラムでは詳述できませんが、特にヴィパッサナー瞑想と坐禅とでは仏教の根幹に関わる深刻な相違点もあります。ここでは共通点について簡単にお話しします。
ヴィパッサナー瞑想、マインドフルネスと坐禅、どちらも身体の感覚を大事にしているということが大きな共通点の1つです。どちらも禅定の確立が目的ではないとご説明しましたが、その理由は禅定が確立すると身体感覚がほとんどなくなってしまうからです。ヴィパッサナー瞑想、マインドフルネスも、坐禅も集中力の育成は必要最低限にとどめます。(註3)
寒い熱い、痛みなどの感覚はいかにも分かりやすいですが、身体の感覚は内感覚も含めると本来、微細なものです。現代人は首から上で生活しているような人も多いので、瞑想あるいは坐禅をはじめても自分の身体とうまくつながれない人もいます。そのような人も慣れてくると、ある規則的に生じる身体の内感覚に導かれていきます。それは呼吸です。身体の内感覚の多く(運動、振動、熱感など)は呼吸によって生み出されています。また呼吸は心の現象とも密接に関連しています。イライラしたり不安になると呼吸が浅く早くなります。逆にリラックスして安心すると呼吸は深くゆっくりになります。呼吸は身体と心の交差点に生じる現象ともいえるため、呼吸に気づくことは身体と心の両方にまるごと気づくことにつながります。

ヴィパッサナー瞑想、マインドフルネス、坐禅において最初に呼吸から入るように指導されることが多いのはこのようなわけなのです。一点集中型の瞑想法でも呼吸を使うことがありますが、多く呼吸をコントロールする技術を学ぶことになります。ヴィパッサナー瞑想、マインドフルネス、坐禅で呼吸が主題になる場合、呼吸をコントロールすることはありません。呼吸に集中するというよりも、呼吸によって生み出される様々な感覚が自ずから実践する人の気づきを導いていくのです。時々、マインドフルネスの実践で呼吸に集中するようにいわれることもありますが、呼吸に気づこうとする努力が瞑想の過程を乱してしまい、一点集中型の瞑想に脱線してしまう例が多く見られます。
もう1つの共通点は両者共、眼耳鼻舌身意の6つの感覚器官と色声香味触法という6つ対象の接触する瞬間に重要な鍵があると考えられている点です。禅テキストの古典では修行者が決定的な体験をする瞬間は6つの感覚器官のいずれか1つに対象が接触した瞬間として描写されることが多々あります。それは近現代でも変わりません。ヴィパッサナー瞑想においては感覚器官と対象との接触のあと感受が起こるとされており、この接触と感受が存在の連鎖を構成する12の因果関係の中で決定的な連結点だと考えられています。かつてお釈迦様は眼耳鼻舌身意の6つの感覚器官と色声香味触法という6つの対象だけが存在するすべてである。それ以外のことについておしゃべりする指導者がいたら注意しなさいと弟子たちに語りました。(註4)
眼耳鼻舌身意の6つの感覚器官と色声香味触法という6つの対象の接触のお話をすると、瞑想や坐禅に何か素敵な体験を期待している人たちはちょっとがっかりした顔をします。そんなことは生き物であれば日常生活で寝ても起きても毎日やっていることではないのか、と。その通りです。瞑想でも坐禅でも、その実践を構成する要素は日常生活を離れた特別なものではありません。ただ、我々普通の人の気づきと集中は非常に微弱で、点いたり消えたりしているトロ火状態なため、人生という薬缶に入った水を沸騰させるにはあまりにも不十分だということです。瞑想あるいは坐禅は、気づきと集中を最大の強火にして、気づきの炎の中で何が起こるかという人間性そのものに対する実験であり挑戦なのです。
註
- 仏教の枠組みではsamatha bhāvana(漢訳では止)として実践されています。
- 祖堂集
- ヴィパッサナー瞑想の場合、流派によっては禅定を確立し、その禅定状態から出てヴィパッサナーに転換する方法もあり、こちらの方が古典的です。
- Samyutta Nikaya saḷāyatanasaṃyutta:Pali text society London